教える、と言うこと。育てる、と言うこと。学ぶ、と言うこと

勉強を遊びの一つだと思えない人たちが教える側に回るとどうなるか @heis.blog101.fc2.com
ここ拾っておもったことをつらつらと。
ポエムっぽいのは仕様。


どうやっても「勉強ができない」という人がいるのは知っているけど、どうもうまく教えられない。
「本当に頭のいい人は頭の悪い人にも教えられるものだ。」という人もいる。*1
けど、教える才能というのはわかる才能とは別個だと私は思う。と言うか、それ以前に技術がないわけだが。
「理解できない子に理解させる」というのは言ってしまえば洗脳だし、
それが楽しいなんてこれっぽっちも思わない―というより思わせる隙を与えない、か。
それが今の「教育」の手法だ。
そうだな、言ってしまえば「奴隷根性」みたいのもその中で与えていると思う。
正直なところ「教えて育てる」と言うより「教えて造る」というべきな気がする。
「教える」はいいとしても「育てる」という発想が今の学校教育にはないように思う。
なんというか無機質的な手法しかない。


基礎として無機質的な手法(或いは苦役としての勉強)というのは重要だ。
じゃなきゃそもそも私がこれだけ文章かけるなんて思えないし。
ずっとそれだけでいいのか、と思う。
「苦役としての勉強」というのも必要(読み書き計算)だが、
今の日本にはバランスが足りていないように思う。
なんというのかな、三大栄養素は足りてるけどビタミンが足りていないイメージ?
「感動」を与えられるような授業、というのがひとつ必要なのでは、と言うのが私としてはある。
ただし、おそらく教職員だけではだめだ。
リアルな社会を見たことがある人はけっこういるはずだ。
親や、親しい人が実際に「社会人」であるのだから
だがリアルな「研究」を見たことがある人はそれに比べればずっと少ない。
いわゆる「自由研究」というのも研究の手法の基礎を教わってから、とかできないかなーとか思う。


うーん、まとまんないからあとでー(ぉぃ

*1:うちの親だが